この地球はある時から競争社会へと変化してしまいました。学校や社会システム、スポーツ、戦争など私たちが生まれた時からもう既にこの社会は人と人が競争をし優劣をつけるのが風習になってしまっています。では、いつからそのような社会になってしまったのでしょうか。
この地球がおかしくなってしまった原因として「魔」の者たちが関与しています。この魔の者たちの構造はとても分厚く厄介でした。詳しくはこの記事にかかせていただきました。
人の競争心
人の競争心はどこからくるのでしょうか?相手に負けたくない、勝ちたい、そう思うのはなぜなのでしょう?
自分が上であると思いたい、自分が上に立ちたい、自分が優れていると思いたい、自分が優れていると自慢したい
どれも自分本位の考え方であり、欲からくるものです。
自分の実力や成果を表現する為の闘争本能という考えもあります。
「人という生き物は欲深い生き物だ」
誰がそう言ったのでしょう?果たして本当にそうなのでしょうか?お金・権力・権威を使いそう思い込まされていませんか?誘導されていませんか?確かに人には3大欲求が備わっています。それが、成長の源になる場合もあります。しかし、欲が浅い人も世の中にはいます。違いは何なのでしょう?
スポーツにおいて、競争心が全くなくただ楽しむ人も中にはいます。試合に負けても別に構わない。楽しむ方が大事。そのような人はこの社会ではスポーツ選手にはなれないでしょう。勝たなけれな意味がないと教えられます。勝たないと実績が残らない。だから、勝つことが大事だと。確かに勝つ目標の中で切磋琢磨しその過程で生まれる大切なものもあります。それはそれで素晴らしいものでしょう。
「勝ちたい」「勝って一番になりたい」
スポーツ選手はこの欲が深くないと勝ち残れないようになっています。勝てば実績が残り、見返りがもらえます。この闘争本能を抱かせてるのもこの社会システムです。
そう思うことは当たり前じゃないの?と思う方がほとんどだと思います。しかし、本当に当たり前なのでしょうか?そこに疑問をなぜ抱かないのでしょうか?それは私たちが今の地球社会の価値観しか知らないから。
しかし、地球以外の価値観を知っている人からしたらこの地球社会はどのように見えるのでしょうか?どう思うのでしょうか?価値観が狭く感じないでしょうか?
生まれた時から相手と比べられ比較対象にされる。両親、友達、先生、同級生、社会から比較対象にされればどうなるでしょう?
子供の時から両親に「なんでこんなこともできないの?」「お兄ちゃんお姉ちゃんはできてるのになんであなたはできないの?」「なんで他の人と同じことができないの?」
両親は子供の成長の為にそう言っているかもしれませんが、言われた側はどう思うでしょう?
萎縮して人によっては劣等感を抱きトラウマになるかもしれません。他人と同じ事ができないとおかしいもの扱いをされたり、正しい大人になれないのではないかと心配の対象になる。だからそのような事を子供に言ってしまう。両親も自分が幼い時に親からそのような言葉を浴びせられ、それが当たり前になってしまっているかもしれません。
他にも、大人になっても自分の奥深いところに過去の傷が残っていて自分に自信が持てなくなってしまった。自己肯定感が低く何をするにも自信がない。もしかしたら、それがいつまでも成長できない要因になっているかもしれません。そのように小さい頃から少しずつ少しずつ比べられ競争心は強くなっていくのではないでしょうか?
いくら外見を磨いても内面性を磨かない限り成長とは言えません。過去の傷を隠すため、見えなくさせるために自分の外側に鎧を覆って分厚い皮を作ってもわかる人にはわかります。内面性とは顔に現れるものであり、嘘の皮を作ってもわかるものです。内面、すなわち魂を磨かない限り人は成長できないのです。
また、人によっては競争心が生まれ持った特性として備わっているケースもあります。それは、今世で育ったものではなく、過去の世で魂に刻まれたものになるでしょう。人によって異なるのはそういった理由からくるものもあります。
ではなぜ小さい頃から競争心が備わってしまうのでしょう?
この地球社会が競争心を刺激するような社会構造になっていると私は思います。
資本主義社会
私たちが住んでいる地球は現在どういった社会なのか理解する必要があります。この地球は資本主義社会であり、競争社会が長く続いています。
本来、社会を作るのは人です。教育によって人が育ち、社会を作っていく。しかし、教育が機能していなかったらどうでしょう?もしこの教育が嘘の多い教育だとすれば?この嘘の教育が時の時代の人から人へ受け継がれていけば、突然、真実を世に伝えたときに人々は信じるでしょうか?
今までの教育が嘘のもので幼少期から植え込まされ続けていればそれは洗脳行為になります。教育によって洗脳行為が行われていることになります。
社会を作るのは人といいましたが、富・権力・権威を持っている人たちがあらゆる力を使い、社会を操っていたら?そもそもなぜ、こんなにも人によって格差が生まれているのでしょうか?
この地球社会は資本主義の構造で出来ています。資本主義の特徴として、資本家が労働力を買って、商品を生産していき利益を生ませること。資本とは事業活動をするための元手、つまり基本的にいうとお金のことです。また自由競争も特徴としてあります。自由競争は個人が自由に土地・お金・道具などを持ち商売ができる仕組み。
昔は会社を建てる為にはある程度のお金を納めなければいけませんでしたが、現代では0円でも会社自体を設立することが可能になりました。自由競争といったら聞こえはいいかもしれませんが、事業を始める為には職種によって道具も揃えなければいけないので、ある程度資金が必要です。また、自由競争を通じて経済の発展に繋がる一方で景気による変動によって会社自体が傾き貧富の差が拡大してしまうのも資本主義の特徴としてあります。
資本主義は資本家が労働力を買って、商品を生産していき利益を生ませること。
この時点でたくさんの「お金を持つ資本家」と「体を使って労働をしている人」、「使役する側」と「使役される側」の構図が出来上がっています。この両者には立場という格差があります。給料の格差もあります。そして、国の税制度があるので給料から色々差し引かれますね。結局、受け取れる給料は業種によって異なりここでもまた格差が生まれています。
この国は悲しいことに国が機能せず、一生懸命働いた国民の税金で悠々自適に暮らしている者、税金を裏金に利用している者、税金で遊んでいる者、国外に流している者。真面目に働いた人から税金というお金を巻き上げ、いい思いをしている人が世界中にいます。これを搾取といいます。必要労働時間以上に働かせる、上手く労働者を利用して低賃金で労働をさせる、これも搾取です。この資本主義社会は利益重視、損得重視、格差、搾取で出来ています。
人は食べ物で出来ています。人々の体と健康を作りあげる食べ物の元となる食材を育てる農家さんが本来一番、大切とされます。第一産業とされているように農家が何より国の宝です。そんな農家さん達の利益は正当に行き渡っているでしょうか?野菜や米、果物の単価と贅沢品(モノ)の単価に違いはあるのでしょうか?
農家はさくもつを育てる為に広大な土地と良い土壌が必要です。加えて、肥料や土づくりの為の様々な材料と道具が必要になってきます。とてもお金がかかります。にも関わらず、手元にくる利益(お金・給料)は少ないです。例え多くてもさくもつを育てる為のコストに充てられ手元に残るのはそんなに多くはないでしょう。ギリギリで生活している農家さんの方が多いと思います。なぜ、給料が少ないのに農家として働いているのか。好きでやっている者、日本の皆んなに野菜や米、果物を届けたい純粋な思いで働いている者もいるでしょう。さくもつを育てるのはとても大変なことです。全身を使う肉体労働です。私たち購入者は彼らに感謝をしないといけないと思います。
そして、国でこの農家を一番に支えないといけません。私は工業製品や観光業より農家を優先的に支えるべきだと思っています。人々の体と健康を維持するには超自然的(無農薬)な素材で作った食べ物を摂取することです。それは皆わかっていますよね?なぜ、そうしないのでしょうか?なぜ、そのような政策を優先的にしないのでしょうか?
この社会は資本主義経済。商品をたくさん生産し、利益を生むこと。モノの方が野菜や果物より高く売れ、莫大な利益を生み出すことができる。そして、人工的に作られた調味料、添加物は低予算で大量に生産できる為、企業としては高利益を生みます。人々の体と健康を犠牲にして、利益を追求しているわけです。
一生懸命、体を酷使して頑張って働いても給料が低く、様々な税金によって何%かを取られ、国や資本家たちに多くを搾取され続ける。このままでは人はどうなるでしょう?この社会が永遠に続くと思い将来に何の期待も出来ず、精神的に病み、生きる希望を無くす。悲しいことに今の地球はそのような社会になってしまいました。この社会は資本主義社会であり、資本主義は競争社会でもあります。誰がこんな社会を作ったのでしょう?歴史や経済を学べば何となくわかります。そして、この社会を作った人たちがどんな存在なのか?国々でどんな繋がりがあり、その血統はどこで繋がっているのか。
人々を必要以上に働かせ、高い税金を納めさせて見返りは少ない。そして、不安不満を抱かせます。この負のエネルギーは人々の欲望を煽る優れた道具になります。不安不満を持てば人は楽しい方向に目を向けようとします。モノを買ったり、観光をしたり、レジャー活動をしたり、様々な芸能を楽しんだり。社会に不安不満を持たせることによってお金を動かさせることができます。
一方でストレスを溜めさせ病気にさせたり、仕事で疲れご飯を作る余裕もなくなりコンビニなどの手軽な商品を食べさせ体を侵させる。そうすれば、最終的には病院に通うようになる。そこでもまたお金が動きます。
人々の「欲求・欲望・不安・不満」を上手く利用し、いい思いをしている者たちが世界中に存在しています。魔の存在からしたらこの資本主義は管理がしやすくとても都合が良い構造になります。
スポーツと競争社会
競争という点でスポーツと資本主義の特徴は同じです。
スポーツの歴史
スポーツはどこからきたのか?
古代のギリシャから始まったとされています。オリンピックがギリシャで始まったように競技活動は西洋諸国から始まりました。その後もイタリアのコロッセウムでも競技活動をしています。この競技とは現在でいうスポーツの競技ではありません。剣と盾を使い傷つけ合う行為、時には人殺しの競技となった時もあったでしょう。コロッセウムは罪人同士を殺し合わせその姿を人に見させる為のものでもあります。当時の西洋の文化は罪人を戦わせ、それを見て盛り上がっていた。
人々を熱狂させることで政治や経済、社会問題から目を背けさせる目的があったといわれています。現代でも同じようなことをしていないでしょうか?人々をスポーツに熱狂させている隙に彼らは一体何を企んでいるのでしょうか?メディアで取り上げられていないだけで、何か動いてはいないでしょうか?
スポーツは勝敗を決めるもの。競い合うこと。戦うものたちが勝敗を決める為に競い合い、勝つ者と負ける者に分かれる。
日本ではスポーツと精神は切り離せないものとして考えられています。スポーツの精神ともいわれており正々堂々、卑怯な手は使わない。プレイヤーだけではなく、審判も公平に判断をする。体(たい)当たりが多いようなサッカーやラグビーなどのスポーツも故意に相手を怪我させないようプレーをすること。
一般論として日本は学生の時に部活に所属し、そこで挨拶や礼儀を学びます。挨拶は気持ちよく元気よく、そして、プレーを通して自分と向き合う、そのような教えを受けます。
では、海外ではどうでしょう?
日本のスポーツと海外のスポーツは考え方が異なります。「精神」という言葉とスポーツはそもそも一緒に考えていないのが風習です。
日本と海外の部活(スポーツ)の考え方↓
日本→技術を学び、磨く為、挨拶や礼儀を学ぶ為に部活に入る
海外→技術を学び、磨く為に部活をする
楽しそうという興味で入り、挨拶や礼儀、スポーツ精神を学びます。あくまで一般論ですが、部活生は元気がいい、挨拶がちゃんとできる、ハキハキしている、という印象が日本にはあります。
日本では競技の技術の他にもそういった挨拶や生活態度、部活で使う物を大切に扱い感謝の心を学ぶ文化的なものがあります。恐らく海外では、日本のように部活やスポーツを通してそういったことを学ぶという教えはありません。
なぜか?日本は「精神」は全てのものと繋がりがあると考えられてきました。何をするにも精神性が人の根底にあり、この精神性を大切にしながら人と関わる、活動する、行うという意識が教えにあり、身についています。掃除をして身の回りを綺麗にするのを心がける、これも精神性に入っています。小中高に掃除時間があるのも日本の精神性の1つです。
海外ではスポーツは競技活動という考え、日本は競技活動という考えもありますが、同時に精神性も兼ねているものという考え方の違いがあります。
日本の武道
スポーツ競技で日本初のスポーツといえば柔道や空手、剣道です。日本は昔から武道があり、この武道は本来競い合うものではありません。武道は体のエネルギー、気功を感じ、宇宙と繋がること、精神を磨き自分自身を鍛えるもの。自分と繋がる為のものです。それが本来の武道です。相手を殺める為のものではありません。競い合い勝敗を決める為のものでもありません。いつの日か武道は競技活動になってしまいました。
究極の空手の演舞を見たことありますでしょうか?一見それほど激しい動きをしているようには思えませんが終わった後、肌からは汗と目に見える程の蒸気が出ています。それは身体中の筋肉、エネルギー、呼吸、心の中の精神部分を最大限に使い数分間、演技をしているから。体のエネルギーを使うことで自分の中の精神部分と繋がる。空手にはそんな教えがあります。
現代の武道で唯一、戦うのを目的としない道(どう)があります。それは、合氣道です。合氣道は体を動かすことで宇宙・自然・エネルギーと繋がり、感じ、調和を目的としたものです。自分の氣と相手の氣を読み合い、技を繰り出す。合氣道の特徴は「相手を攻撃しない」という部分です。もし、攻撃してきたものがいたとすれば、それを捌(さば)き技を返す。相手の攻撃の力を上手く活用して跳ね返すのが合氣道です。「受け」の武術であり、読んで字の如く、「氣を合わせる」武道です。和合を目的としたものですので、相手を傷つけるものであってはなりません。
合氣道の創設者、植芝盛平(うえしばもりへい)の言葉
「合氣とは敵と闘い敵を破る術ではない。 世界を和合させ人類を一家たらしめる道である。 即ち、合氣道の極意は、おのれを宇宙の動きと調和させ、おのれを宇宙そのものと一致させることにある。 修行者は、このことを日常の鍛錬を通じて 悟るべきである。」
敵を打ち破るのではなく、あらゆる人と調和をし、手と手を取り、和合をする。和の心を大切にするということ。
柔道と空手はオリンピック競技にされてしまいました。日本のそれぞれの連盟は当初オリンピック競技になることを反対していました。オリンピックは競い合うことを目的としたものですので、日本の武道精神が損なわれると考えていたからです。しかし、世界にもっと広げる為にオリンピック競技になることが決まりました。そこに純粋な気持ちはなかったと私は思っています。オリンピック競技になる為にはお金も発生します。そして、競技になることでお金が生まれます。柔道と空手は世界の競技人口が年々増えているので、そこに目をつけたオリンピック協会の圧力もあったと私は感じています。
オリンピックとスポーツの関係
パリ五輪でも明らかになりましたが、オリンピックは本当に気持ちのいいスポーツ競技なのでしょうか?
選手村のお話をご存知でしょうか?各国の選手たちが一斉に集います。もちろんその時に肉体関係を築く為の準備も行われています。そして、五輪の準備をするのは誰でしょう?政治家たちが議論し、何が必要なのか予算調整を行いますのでもちろん承知していることでしょう。
肉体関係を築くことでアドレナリンが出ます。それをスポーツに活かしていたらどうでしょう?
スポーツは競技を目的としています。オリンピックはその活動の場です。スポーツとオリンピックは全て西洋諸国が作り上げたものです。そして、この競技活動を国の活動として作り上げた権力者の裏にいるのはどんな人たちなのでしょう?資本主義の構造でもかきましたが、彼らは人々を競争させるのが狙いです。資本主義は競争社会であり格差社会です。スポーツも競争をし勝敗を決めます。優劣を明らかにするものでもあります。
社会全体、スポーツなど私たちの取り巻く環境は全て競争社会であり、勝敗、優劣を決めてしまっている社会になってしまっています。私たちはそんな環境で生きているということ。生まれてきた時からそんな環境であればどうでしょう?それが当たり前として考えます。学校でも勝敗や優劣を付ける取り組みも行われます。体育で行う競技、運動会、発表会、学年テスト、学力テストなど、順位を決める活動です。子供の時からそのような環境ができてしまっています。
格差社会・競争社会自体は遥か昔から築かれていました。そして、この全ての競争環境を作り上げたのは一体、誰なのでしょうか?
競争社会を築いた者たちと資本主義社会を作り上げた人たちは同様の人たちでしょう。資本主義は18世紀後半のイギリスで確立されたといわれています。そして、オリンピックはギリシャ。オリンピックはゼウス神に捧げる競技祭として始まったとされています。
全て西洋諸国が築き上げたものです。前回の記事でもかきましたが、世界の地域を植民地化したのも西洋諸国。そして彼らの生活の基盤は宗教です。彼らにとってキリスト教は絶対です。キリスト教にも宗派がありますから、もちろんこの宗派で争った経緯もあります。しかし、この宗派の違いはちょっとした考え方の差であり、大元のイエス・キリストは変わりません。各諸国、結び付きはとても強いです。
もうお気付きの方がいるかと思います。この地球社会を競争社会にさせた人たち、築き上げた人たち。この地球が狂ってしまった要因は競争社会にあります。そして、この「競争」意識は宇宙からしたら靈性が低い部類になります。相手と優劣を付けることは宇宙の意識からとてもかけ離れたものになります。
地球のこれまでの時代は競争社会でした。人々を苦しめていた原因でもあります。
競争環境によって生まれるもの
部活の段階のスポーツは心を鍛える為のものなのかもしれません。しかし、大人になってスポーツ選手となれば高額のお金をもらえます。高額のお金をもらえるスポーツ選手は肉体的にも技術的にも優れていますからその対価としてお金がもらえる。そして、そうではない者は額が低い。競争環境で活動している者と世のため人のために働いている者、比較したらどうでしょう?なぜ、人のために働いている人たちの給料が低いのでしょうか?「お金」という目に見える形で優劣がついています。競い合わせてお金が発生するのもこの競争社会の特徴です。
この社会では競争意識が強い者ほど成功するような仕組みです。ここで成功とは給料が高いということです。企業もスポーツも芸能活動も競争して勝ち残ったものが成功といわれ、名誉が得られます。
勝負をして仲が悪くなったり、優劣をつけられて劣等感を抱いたり、不和の原因となる可能性があるのも競争の特徴。人はそれぞれ違いますから能力的に優れている者もそうでもない者も必ずいます。魂がどのような経験をしてきたか皆それぞれ違うのでこれは必然的なことです。劣等感を抱いて、嫉妬する、嫌いになる、これらの感情を抱く者もいます。いじめの対象になることもあります。そんな自分とは違う能力を持っている人がいて、なぜ、傷つける行為に走るのでしょう?なぜ、尊敬やその人の良い要素を素直に学ぼうという気持ちにならないのでしょうか?
人を傷つけてしまうのは魂の因果からくるものなのかもしれません。過去も同じように人を傷つけ、今世でも同じようなことをしている。そのような人はたくさんいます。なぜ、因果となって魂に刻まれるのでしょう?それは、度々かかせていただいていますが、人は成長する為に何回も何回も生まれています。何回も同じ境遇に合わせ魂を磨き少しずつ少しずつ確かなものにしていく。乗り越えられるかどうか、本当に乗り越えられたかどうか確かなものとするために因果は皆に与えられているものです。同じことを何世も何世も繰り返している者もいます。
皆「成長」という課題を受けているのです。この課題は苦しいですが、とてもありがたいことなのです。
さいごに
競争社会は魔が作った社会システムであり、彼らはお金・利益・権力・権威を使いこの地球社会を管理していました。そこで、どうすれば地球の魂たちの靈性向上を図れるか、高次の存在たちは考え、良き魂を持つ者を送り込んだり、政に参加させたり、昔から様々なことをしてきましたが、魔の勢力が圧倒的過ぎて彼らを倒すことができませんでした。送り込んでも魔の存在たちはずる賢く、巧妙にその人たちを自分側に取り込んだり、殺めることもしてきました。しかし、ある時期を境に宇宙の高次元存在たちは決断をします。魔の存在がいる限り地球の靈性向上は無理だと判断しました。そこで、神と高次元の存在たちの介入により魔の存在を地球から退ける活動、関わらなくさせる活動が始まりました。同時に地球を次の次元に移行させる取り組みも行われています。それにはある程度、地球人の靈意識を向上させなければいけません。魔の勢力が圧倒的であればそれは簡単なことではありません。そして、時間がかかることでもあります。お金や権威など目に見える力で魔の存在たちを退ける方法ではなく、人々のこれまでの意識を変えるやり方で行われてきました。力で無理やり意識を変えても意味ありません。全ての意識を根底から変えない限り根本解決には至りません。この意識とは、真実を知らないことを理解すること、洗脳が行われてきたことを理解すること、この地球社会は偽りの魔が作ったシステムの中で私たちは生きているということです。
この意識を変えない限り、ずっと騙されたまま苦しい思いを強いられいつまでも靈性の向上ができません。私たちはまず真の神によって生かされている存在なのだと自覚をすることから始まります。
真の神とは、宇宙・地球・自然森羅万象・生命(いのち)を司る仕組み・エネルギー・顕れであるということ
宗教上に出てくる神(人神)と崇められている存在ではありません。私たちを実際に生かさせてくれているエネルギー・お仕組みです。まずそこに感謝をすること。
日本は和の国といわれていますが、現在の日本は本当に和の国なのでしょうか?もちろん和の心を持っている人は日本各地にたくさんいます。ですが、自己利益しか考えない者も同様に存在しています。和の精神を持った人の比率が変われば日本は変わり、和の国に戻ります。それには、真実に気づくこと、洗脳を解くことが必要です。
日本の役目、日本人の役目は「本当の和」を世界に伝え教えることです。もちろんその為にはまだ「学び」が必要ですが、世界を変える為には日本が変わらなければいけません。日本人の価値観は世界諸国と比べて、あまりにも違うものです。日本人とは何なのでしょう?なぜ、私たちは日本人として生まれてきたのでしょう?偶然では決してありません。全てのことは必ず意味があります。宇宙との繋がりを探せば自ずと答えがわかってくることもあります。日本人はとても素晴らしくもっと自分に自信を持って欲しいと私は思います。
これからの地球時代について、地球はこれからどうなっていくのかをかいた記事になります↓